1960年代、池田勇人首相が国民の所得倍増を国家目標にし、消費経済がスタートし日本人が活き |
活きしていた頃、 昭和42年保刈社長は、弱冠24歳で丸保株式会社の前進丸保商会を創業した。 |
『当時は自転車で営業していました。いつになれば車が買えるかなと考えていました』と保刈社長は、 |
当時を懐かしむ。確かにマイカー時代の幕開けの時代でもあったのです。日本はその後バブル期を |
迎え、俗に言う失われた20年に突入し現在に至りますが、丸保鰍ヘその激動の40年を乗り越え、現 |
在、豊島区に本社、ふじみ野市に埼玉営業所を構え安定的経営を成し遂げている。 |
40年の経営を支えてきた経営指針はなにかと聞いてみた。『刺繍の仕事は、元来、徒弟制度によ |
り時間をかけて技能を伝承していた。そして技能の高さが、商品価値として評価されるものだった。 |
ところが、70年代に入ると電子制御付きミシンの出現により、職人でなくともその仕事をできるように |
なった。業界にショックを与えた。ただ職人の仕事のすべてができるわけではなかった、そこで職人に |
しかできない仕事は、職人に任せ、電子制御付きミシンがカバーできる仕事を新たに受注していこう |
という流れを社内につくった。それがスポーツウエアーマーキングの仕事である。時代はまさに、スポ |
ーツすることを人生の大きな楽しみとして受け入れようとしていた。“時代のニーズに合わせ業態を変 |
えていく判断力を持つ”これが経営指針かな』と保刈社長は語る。次なる時代のニーズはと聞くと『衣 |
料だけにマーキングが必要なのでなく、全産業にマーキングのニーズが高まっている。それをやり |
たい。その意味で車用ステッカーは、トータルマーキング業の一分野なのです。』と語る。 |